阪神大震災から26年。長田に住んでいた当時小学校1年生だった私が初めて記す当時のリアルな記憶。

Aeris starship academyのairiです♡

 
 
 
今日で阪神淡路大震災から26年ですね。
 
今朝ものすごく当時のことを鮮明に思い出したので、
 
そのときのことを初めて詳細に書いてみようかと思う。
 
よかったらお付き合いください😌
 
Instagramのストーリーにも載せました。
 
 
 
 
当時わたしは小学校一年生でした。
 
やっぱり当時からカンが強かったなと思うのは、揺れ始めてから起きたんじゃなくて、
 
ふと目が覚めて、『トイレ…?』と思った瞬間に、
 
ドーーーン!!!
 
という音とともに強い揺れが始まりました。
 
2段ベッドの上に寝ていて、ほんとに何が起きてるのかわからなかった。
 
弟に聞いてびっくりしたけど、わたしはワーワー泣き叫んでたらしいw
(まっったく記憶になかったです😳記憶っていい加減ね…)
 
一軒家の2階、子供部屋にわたしと弟、隣の部屋に3歳の妹と両親が寝てました。
 
両親は布団で寝ていたので、タンスが倒れてきて、それから必死に妹を守る母が寝ていると勘違いし、
 
父は母をビンタしたというのは今でも笑い話になってますw
(寝てるわけないやろw)
 
まぁ、笑い話になったっていうのがほんとにありがたいことですが…😌
 
 
 
わたし達の部屋と両親の部屋は繋がっていたので、
 
『あんたら大丈夫??絶対に動いたらあかんで!!!』と言われていて、
 
当時6歳になったばかりの弟は夜中に起きて1人でトイレに行けないので廊下に置いてる瓶の中に小をしていて、
 
動いたらあかん!と言われてるのに『おしっこしたい』と聞かなくて笑、
 
まだ余震もある中弟が瓶におしっこしてたのも覚えてる。笑
 
 
 
しばらくして揺れがおさまったので、外に出たら近所の人たちがみんな外に出てきてて、
 
広場みたいなところがあったのでそこで『大変なことになったね…』と言い合ってた。
 
そしたら、近所に住んでる同級生のCちゃんがタンスに挟まれてるから助けるの手伝ってとの声がかかり、
 
30代後半だった父は駆り出されて行きました。
 
Cちゃんは怪我なく無事に助かり、父はすごく感謝されていた。
 
 
 
当時もちろん電話とかもつながらなかったので、とりあえず近くに住む親戚の安否が気になって、
 
日が登ってきたころに車で親戚の家に向かうことになった。
 
一番被害の大きかった長田の少し上の方に住んでたので、下を見下ろすと火の海でした。
 
子供心にびっくりした。。😳
 
 
 
電信柱が倒れてる下を車で通ったりして、親戚と合流。無事を確認。
 
とりあえずわたしの家も傾いてて危なかったので、その日はその近くの学校に泊まりました。
 
おにぎりとかも少し配られたのかな??
 
母たちはわたし達に食べさせてくれて、自分は食べてなかったように思う。
 
母はインスタント食品を嫌ってて食べられなかったこのときの経験から、
 
震災後からインスタント食品も時々食べるようになった。(非常時に困るからと)
 
 
 
体育館には一泊だけして、すぐに遠い親戚の家にお世話になることになりました。
 
トイレの水も使えなかったので、毎朝誰かが水を汲みに行ってくれて、
 
子供だったので外で用を足してました。
 
不謹慎かもしれないけど、このときまだ子供でよかったなと思います…
 
大人たちに守られていました😌
 
 
 
父は、潰れてしまったビルから仕事で使う機械だけを取り出したり、這いあがろうとするパワーがすごかった。。
 
(ちなみにこの数日前に父の知り合いが逃げてしまい不渡にあい、
財産が飛んで相当な負債を抱えることがわかってたらしい。いや地獄か。笑)
 
両親は車の中で何度も2人で泣いたと言ってました。
 
倒壊しかけた家に、大事なものだけを取りに行ったのも覚えてます。
 
通帳だけ机から出した気がする(笑)
 
 
 
住んでた家は半壊くらいだったけど、家主さんが取り壊すことにするというので全壊認定に。
 
とにかく住むところがないまま、兄弟の中でわたしだけが就学していたので、
 
学校に通わなきゃとなって、広島の親戚の家に1人預けられることになりました。
 
今思ったら小一で、よく自分は1人で行くことを了承したなと思う。
 
弟や妹だったら無理だったんじゃないかと。笑
 
子供心にいろいろ納得してたんでしょうか😅
 
 
 
広島の親戚家族には一つ上と一つ下の姉妹がいて、その姉妹のことが大好きだったし、
 
おばちゃんも臨時でわたしのために小さな勉強机を用意してくれてたりして、
 
今思うとほんとにありがたかったなと思う。
 
おばちゃんは料理がすごく上手だったので、食べない子だったはずが結構いっぱい食べてた記憶。笑
 
5歳から続けてたピアノも途切れてはいけないと、ピアノ教室にまで通わせてくれた。
 
神…??笑
 
 
 
でも学校ではちょっといじめられてたな〜。
 
このときのわたしといえば内弁慶がものすごくて、
 
何かされてもじっと黙って耐えるタイプだったもので。。😅
 
帰りの会でよく議題に上がってました。
 
わたしへのいじめ?が…
 
寝るときもやっぱりさみしくて、たまに布団の中でシクシク泣いてたなぁ。
 
たった2ヶ月くらいのことだけど、小学校一年生のわたし偉かったな〜と思う。
 
 
 
その後、4月からまた長田の親戚の家に少しお世話になりながら小学校に通う。このとき二年生。
 
このときは同い年の従姉妹と一緒に通ってたし、従姉妹の友達ってことで見知った子たちもいたのでそこまで緊張したりはしなかった…
 
でも、親たちもこの間ずーっと親戚の家に居候?みたいになってて、
 
小さい子供を連れながら相当なストレスだっただろうなと思います😅
 
 
 
そうこうしてるうちに家が見つかった!となり、引っ越すことに。
 
そこから車で行けるところに会社も引っ越し。
 
そのマンションは広いし住み心地も良かったし、わたしも友達がいっぱいできました。
 
ていうか、この頃にはいろいろ物おじしなくなってて、
 
男の子になんかされたらやり返すくらいになってました(笑)
 
『黙って我慢してたらあかん』ということを広島で学んだくさい。
 
そして、短期間で新しい環境にぶち込まれすぎたおかげで、かなり強くなっていた。笑
 
友達をつくるのもうまくなってました✨
 
 
 
わたしは通ってたピアノ教室で、コンクールに出るという話も出るくらいになってて、
 
そのために練習をがんばってました。
 
ほんとは5歳から通ってたピアノ教室の先生も、わたしがたまに歌詞のない曲に歌詞をつけてきたり、
 
そういう才能?みたいなのを感じてくれてて、音大に行きたいならそう指導しようとしてくれてたらしい。…と後で知ったw
 
地震でその先生とは別れてしまったけど、ここの先生もそんな感じで思ってくれてた。
 
その頃小学3年生になってました。
 
 
 
ただ、この家と父の相性が悪かったようで、父の酒量は増えるし事故もするし…
 
両親のケンカもかなり多かった。
 
そんなとき、また長田に家が見つかったとなり、引っ越しが決まる。
 
わたしはピアノのコンクールに出ることを諦めないといけなくなりました。
 
なんか、なぜかそこまで悔しいという思いもなかった…けど、
 
やっぱりピアノに対する熱量はそこで失ってしまったように思う😅😅😅
 
がんばってたことがパーになったので。。
 
母に泣きながらごめんねって謝られたこと、今でも覚えてます。
 
 
 
小学校3年生くらいに長田に帰ってきて、以降これまでずっとそこで暮らしたわけですが、
 
小学校は4回転校、5つ通った感じ。笑
 
まぁ、ここからわたしの人生はさらにハードモードに入るんですがね。爆
 
地震で大変な思いしたことなんて比にならん感じで🤣🤣🤣
 
まぁそれはまたどこかで。笑
 
 
 
地震は間違いなく大変で悲しい出来事だったけど、わたしの人生にとっては大きい転換になったと思う。
 
それにこのときに家が全壊したことで、中学2年生のときに奨学生?的に、
 
川崎重工基金でオーストラリアに2週間行くことができたりもしました。
 
長田の『タダでは転ばん精神』も今となっては結構誇れる。笑
 
もう今は住んでないし住みたいとは思わないけど笑、大切な地元です。
 
 
 
ピアノも、このことでチャンスを逃した形やけどだからこそ今の経歴をもつ自分になったし。
 
別に悔いとか恨んだりとかは全くないです😌
 
 
 
ただただ、この時期を乗り越えてくれた親のことは尊敬でしかない。
 
子供がいてもおかしくない年齢になってより思います。
 
改めて今に感謝。
 
そして亡くなられた方に改めて黙祷を捧げます。
 
 
 
ではまた♡
 
 
 
 
 
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大学卒業後に大手信託銀行へ入行。8年半働いたのち、独立を決断。

銀行時代は、遺言・資産承継などを主に、税務・法務などの知識も必要とされる部署にて3次元的なスキルを身につける。

自らが夢や将来に向けて模索してきた経緯から、『自己を知り・癒すことで、直感を使って自分だけの道を豊かに生きる』セッションや講座を提供している。

元々はパワフルなヒーラーでありながら、スピリチュアルの域を超えた、現実的であれど宇宙の力を感じられるセッションが人気。

2020年は述べ900名以上のクライアントと出会い、ほとんどの講座は一時休止となったことも。

起業初年度より2年連続で年商8桁を達成し、2020年12月に法人化。

現状維持ではなく、常に『今』のエネルギーを読みながら、自らもアップデートし続けることを心がけている。